障碍・難病の人生は幸せか不幸か本人を差し置いて判断できるのか
障碍・難病の人生が幸せなはずがない。第三者のこのような思い上がった決めつけが「やまゆり事件」につながっているのは自明です。幸せかどうかは本人が決めることですし、そもそも不遇なら生きている価値がないと誰が決めたのでしょうか。
ちょっと前ですが、難病の赤ちゃんに対して、親御さんがとられている対応が話題になった記事があります。
気管切開の手術をして生還した赤ちゃんに対して、「これが本当に幸福なことなのか」という意見も一部にありますが、どうして幸福ではないとわかるのでしょうか。
生きるってことをいったいどう考えてるの? という話です。
ゴーシェ病なら生きていてはいけないのか
2015年に生まれた赤ちゃんが、生後半年で、国内では33万人に1人と推定される難病「ゴーシェ病」と確定。
やがて自力呼吸ができなくなり、ICUに移されましたが、苦しみの渦中にいるはずの本人の笑顔を見て、両親は「ここで終わらしてしまうのは親の勝手なエゴだ(ママ)」と考え、気管切開の手術を行いました。
そして2カ月後には心肺停止。懸命な心臓マッサージや人工呼吸によって蘇生したものの、その後もたびたびけいれんと発作が収まらなかったそうです。
その後、急性期は乗り越えたものの、今度は在宅看護でミルクは1日5回、薬は4回、ほかにも、たんの吸引や導尿、かんちょう、マッサージなど、やることは盛りだくさん。
さらに2週間に1度は入院し、体内でつくることができない酵素を点滴で補充します。
それ以外にも呼吸などに異常がないかどうか、両親は24時間、いつも気持ちが休まることはないといいます。
それでも、4つ違いの姉は、新しい家族を泣くほど喜んでいたそうです。
「難病の子」は不幸ですか?
「一定数生まれること、知ってほしい」
母親が伝えた「かわいそう」ではなく「家族っていいな」というメッセージ。「難病の子」は不幸ですか? 苦しみ続ける姿、それでも…家族の日常 – ウィズニュース https://t.co/lRxl8qHTQ4 #withnews #ゴーシェ病 pic.twitter.com/Hl3t1mjZnH
— withnews (@withnewsjp) December 6, 2018
この記事に対して、Yahoo!のコメントを見ると、Web掲示板のような、障害児を悪しざまに唾棄するようなものこそありませんでしたが、ただ悪意はないにしても、否定的な意見も一部にはありました。
>不幸です。家族全体がね。
>子供にとっては辛いだけ
要するに、このお子さんを、生かしてはいけないということらしいですね。
だったら、はっきりそう書けばいいのに。
私から見れば、そのコメント者たちは、しょせん苦労知らずの思い上がりです。
私は、子供がJCS300の深昏睡から遷延性意識障害になり、痰とり、24時間一定間隔休み無しの投薬、心臓の鼓動のリズムに一喜一憂する日々等、地獄の日々を経験しています。
そんな私としては、端的に述べると、「何もわかっちゃいないなあ」という一言に付きます。
要するに、それらの意見の根本的な問題点は、障害や難病のある者が生きていたって幸せなはずがない、という揺るぎない思い込み に尽きるでしょう。
何度も書いてますが、どうして第三者にひとさまの人生の評価ができるのでしょうか。
そういう差し出がましい了見こそ、よほど不幸で汚らしい発想なんです。
本人の性格や状態にもよりますが、たとえば障碍者本人の心の中は、意外とハッピーであることが少なくありません。
なぜなら、健常者が持つ打算や見栄などの見苦しい価値観で自分を追い詰める「心の闇」を持ってないからです。
その意味では、実は健常(定型)者こそ病んでいるのではないか、近年、私はそんなことに気づきました。
今回のケースは、親として当たり前のことをしていると思います。
我が子には生きていてほしいとおもうでしょう。
ここで頑張ることで、学校も通えて社会にも出る道筋が見えてくるかもしれないと、明日に対して前を向いて生きているからこその日々だとおもいます。
大変は大変ですよ。人生犠牲にします。
親御さんはそういう自分の運命を呪っているはずです。
さぞ悔しいでしょう。
ただその一方で、今行っていることは、「今できることをする(できることがある)」という意味で、苦しみとは別に抱く、充足感や、希望に向かって進む前向きな日々に対する清々しさのような心境もあると思います。
それはもう、「どうして自分たちがこんな目に……」と、苦悩の極限まで追いつめられたものだからこそ、悟れることなんですけどね。
いずれにしても、人生をどう見るかというのは、糾える縄ではありませんが、単純に幸か不幸かというものではないし、その見え方は当事者である自分も答えは容易に出せません。
ましてや第三者が、それを判断できるものではないのです。
プラクラマテイズムな現代の衆愚
もと記事にも書かれているように、障碍や難病のある子の出生は一定の確率であります。
また、出生時は何でもなくても、人生を送るうちに、別の障碍や難病を経験するかもしれません。
つまり、生まれてくる子供、子孫を含めて、私たち誰でもあり得ることなのです。
ですから、その対策は、社会として行う必要があるのです。
なのに、「やまゆり園」のような事件があったり、政治家が「生産性云々」などと低級な発言をしたり、しかもそれに同調する一部国民がいたりして、いったいどうなってんだろうなと思いますね。
以上、障碍・難病の人生が幸せなはずがない。第三者のこのような思い上がった決めつけが「やまゆり事件」につながっているのは自明、でした。
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